HOME > Movie > Netflixのトルコ映画「Have You Ever Seen Fireflies?」感想

Netflixのトルコ映画「Have You Ever Seen Fireflies?」感想

  • Movie
HaveYouEverSeen-Firefliesのメインビジュアル画像

気になったのでマイリストに入れていた作品をようやく観ました。ユーモアセンス抜群の名台詞がポンポン飛び出してくるので笑いながら観ていたものの、作品を通して暗に描かれる主人公の孤独が切なかったです。

メインビジュアル画像引用元:Have You Ever Seen Fireflies?

「Have You Ever Seen Fireflies?」とは

トルコで1999年に上演されていた人気の舞台作品を映画化したものです。「Turkish Film on Netflix: “Have You Ever Seen Fireflies?” from Stage to Cinema」によると、この舞台はトルコ全土で合計505回も上演され、2002年時点で100万人以上の観客動員数があったそうです。2002年時点のトルコの人口は約6,500万人だったので、単純計算で国民の約1.5%(日本人口約1.2億人でいうと約180万人)が足を運んだことになります。かなり人気を博していたんですね。

空軍士官学校にいた頃にこの舞台原作を書き始めたYılmaz Erdoğan自身も俳優で、今回の映画にも主人公の就職先の社長役として出演しています。Rotten Tomatoesではユーザーから80%の好印象を抱かれているものの、レビューではかなり極端に評価が割れているので人を選ぶのかもしれません。

「Have You Ever Seen Fireflies?」(トルコ語原題:Sen Hiç Ateşböceği Gördün mü?)
リリース:2021年4月9日
制作元:Netflix
制作国:トルコ
言語:トルコ語
上映時間:113分

「Have You Ever Seen Fireflies?」のあらすじ

主人公ギュルセリンは幼い頃から利発でよく喋る、ちょっと風変わりな子だった。子供の時から何よりも好きだったのは家の裏庭で飛び回るホタルを見ること。
抜群のユーモアセンスを備えたまま大人になったギュルセリンは、ある日彼女の卓越した暗算能力を取材しに来たYoutuberの青年に自身の半生を語り始める。老いた彼女の口から語られる人生は不安定な社会情勢の中でも健気に生きていた、一人の女性の話だった。

「Have You Ever Seen Fireflies?」の公式予告

予告編だと激動の時代を生き抜いた女性の話に見えるのですが、映画だとその雰囲気はもう少し軽かったです。

「Have You Ever Seen Fireflies?」の感想

学校で反抗的な態度をとりまくっていたギュルセリン
画像引用元:What To Expect From Netflix’s Have You Ever Seen Fireflies?

まず主人公のギュルセリン。もうとにかくよく喋る喋る。作品では3~4桁数字の掛け算暗算能力くらいしか描かれていないんですが、彼女は恐らく「天才」型の人間だと思います。頭の回転が速すぎるんですね。

そのせいでギュルセリンは母親から何につけても文句を言われていたものの、ギュルセリンの周りにはいつも優しくて寛大で親友も同然だった父親と、彼女を温かく見守ってくれる父方の叔母イゼット、叔父ハズィムがいたので彼女はすくすくとそのまま大人になっていきます。

登場人物達の言葉遊びのような台詞は面白すぎました。残念ながら文字にしても全然伝わらないと思うのですがいくつか挙げてみます。

  • ギュルセリンの産婆の女性(噂好きで鬱陶しがられている)がギュルセリンの家にやって来てた時も、「いつ来たの?いつ帰るのか知りたい」と何の躊躇いもなく訊ねるギュルセリン。
    その女性がギュルセリンの見合いを喜び始めると叔母イゼットは「まるで自分が初夜を迎えるような喜び具合だね」などと評したり。
  • また、共産主義者として逮捕されていた叔父ハズィムが釈放された祝いを開くために酒が必要として、父ナズィフは敬虔なムスリムである母方の叔父キュルセットに「酒買ってきて」と頼んだ際、「そんなことするなら墓に入った方がましだ」とキュルセットは返すんですが「いやいや、それはダメだ。お前が墓に入ったら誰かが埋めなきゃいけないだろ」とハズィムが返したり。
  • 革命を熱望するギュルセリンの友人ヴェリがギュルセリンの家の壁に革命の文言を落書きしていた時も「革命の文言によって広告代貰おうかな?」とギュルセリンは言ったり(ヴェリはアナーキストだったのでこの後殺されてしまう)。

翻訳もすごかったです。Netflixの翻訳には時々「ん?」と感じるものがあるんですが、この作品では一般的に翻訳しにくいだろうダジャレやギャグも分かりやすく翻訳されていたので本来の台詞の雰囲気が伝わってきました。

  • 例えばギュルセリンの見合いの場にて。相手の父親が棚を「これはクワ材か?」と値踏みしていた時に「もっとよく見てみたら?クワしく(詳しく)」と返すギュルセリン。

    この時の英語は「mulberry」のクワと、”熟考する”という意味の「mull over」を掛けていました。(この見合いの場で互いの名前の勘違いによる時差ギャグのようなものも描かれるんですが、トルコ語の固有名詞や語彙が分からない私には残念ながらそのギャグのテンポについていけなかった)
  • また、ギュルセリンの元夫(肉屋)について彼女と母親が口論した時も「あいつのことを”ステーキ”とか”羊の金玉”とかは呼んでいいけど”ステキ”とは言わないでよ!」とギュルセリンが言った時。

    この時の英語は「charming」の”ステキ”と、「steak」の”ステーキ”が掛かっていました。音声はトルコ語でしたが英日字幕で観ていたのでダジャレの理由も分かって楽しめました。

そしてギュルセリンにとって欠かせない人物が父親のナズィフ。とにかく優しいんですよ。ギュルセリンがギュルセリンでいられたのはナズィフのおかげだと思います。

例えば、ギュルセリンが学校で教師達に口答えして反抗しまくっていたので退学させられた日も、ナズィフは彼女に寄り添ってアイスを買ってあげるんです(その時無邪気にバニラ味を注文したギュルセリンと、「”悲しみの父”味をください」とふざけて注文したナズィフがまた優しい)。

公務員だった父親のナズィフは人が良すぎるあまりに騙されてグミ(赤い木の実)の商売に乗り出し失敗していました。
ここでまず「グミの商売って何?!」と正直思ったけど、トルコではグミの実って一般的なんかな?私は子供の頃野花の蜜やら実やら食べてたけど、グミの実を食べたことがあるのかどうかは記憶にないから味が分からん…

ギュルセリンの母親イジャルはもちろんこの事業に猛反対していました。「グミ不足だから」という理由でグミの在庫全てを欲しがっている相手が見つかったと説明するナズィフに対し「グミ不足の土地なんか地球上のどこにあんのよ?!」とイジャルがキレた時は不覚にも笑った。

あと、これは完全に余談。イジャルが相手を追い詰める時の口癖は「それで?(Ee?)」なんですが、作中で何度も耳にするので勝手に覚えた。

左から叔母イゼット、叔父ハズィム、母方の叔父キュルセット、母イジャル、父ナズィフ
画像引用元:Turkish Film on Netflix: “Have You Ever Seen Fireflies?” from Stage to Cinema

先祖がオスマン帝国の楊枝官(偉い人の歯に何か詰まった時に取る人らしい。そんな仕事あったんか…と思った)だったというナズィフは自分が子供の頃は裕福な暮らしをしていたので、妻や愛娘のギュルセリンにも同じような生活待遇を与えてやりたいと思っていました。
でもグミの事業も上手くいかないし、その後に手を出した塩の事業もトラックが海に落ちて失敗。次第にナズィフは落ち込んでしまって酒に手を出し、若いギュルセリンを残して逝ってしまいます。
ギュルセリンにとっての初めての死が、誰よりも好きだった父の死だったんですね。

作中で「私が大好きな人はみんな早く死んでしまう」とギュルセリンが呟くように、本当にみんな彼女の元から去っていきました。大好きだった父親ナズィフは早逝し、叔母のイゼットは遠くに嫁いでいき、叔父のハズィムは政治犯として逮捕される恐れがあったので北欧に亡命し、友人のヴェリは相反する勢力に射殺され、そしてギュルセリンが人生で初めて恋したデュンダルも戦死します。

そんな彼らとは対照的にいつまでも生き残っていたのが、子供の頃からギュルセリンを「頭がおかしい」と常に全否定してきた母親のイジャル。イジャルは最後までギュルセリンの人格を受け入れず、愛してあげませんでした。

50歳になっても独身のギュルセリンは母親とともにゲストハウスを営んでいたのですが、ある時イジャルが「こんな惨めな生活してんのはあんたのせいだ。あんなに良い夫と離婚なんかして」「あんたが頭がおかしいのはホタルのせいだ」とまたいつものようにギュルセリンを責め始めたんですね。(肉屋の元夫は無教養な亭主関白男だったので、自分よりも頭のいいギュルセリンが許せず、彼女に暴力を振るった)

今まで散々自分の人格や人生を否定されてきたギュルセリンも我慢の限界だったので、この時に「私の大好きな人達はみんな死んでしまったのに、ママだけは私達が不幸でいるようずっと見張り続けている」「愛してるからもう死んでよ」と返し、その後に本当にイジャルは死んでしまいます。
私は「愛してるからもう死んでよ」という言葉の重さに呆然としました。

母イジャルは娘のギュルセリンにキスをされるのも嫌っており、生前はギュルセリンにキスもハグもしてくれなかったらしいです。そのため、ギュルセリンは子供の頃からずっとイジャルが眠っている時にキスするしかなかったことがこの時に明らかになります。

ギュルセリンはイジャルの前で敢えてふざけまくるんですが、それはイジャルがギュルセリンに対して毎回怒りを向けることを「自分に関心を持ってくれている」と認識していたのでは、とも思いました。愛情を向けてもらえないなら、完全に無視されるよりは例え怒りでも嫌悪感でも何かしらの感情を貰いたかったのかもしれません。

正直に言うと、あそこまで存在を全否定され続けてきたギュルセリンがずっと母親の側を離れなかったのは不思議です。
ただ、彼女は「いつか母から愛してもらいたい」と50年間もどこかで願い続けていたのかもしれません。どんな子供でも親からの愛情を切望してしまうとは理解しているものの、ギュルセリンが必死に愛情を求めていた期間の長さを考えるとあまりにも辛いです。

ただ、自分を不幸にしてくる親が自分の人生において負担でもあるので、ギュルセリンは母親に愛されたかったと同時に、死んでほしくもあったんでしょうね。
そのため「愛してるからもう死んでよ」という言葉は、本当に「愛している」と伝えたのではなく「私が愛している人達は早死にした≒私が愛しているならその相手は死ぬはずだ」という彼女の経験則に基づいた、一種の呪いのようなものだと感じました。
あの時のギュルセリンはイジャルからもう解放されたかったんだと思います。

ギュルセリンの父ナズィフと母イジャルは対極すぎる性格なので「何で結婚したんや」とすら思ったんですが、地位や名誉、金が大好きなイジャルからすれば高貴なナズィフの家柄は垂涎ものだったのかもしれません(実際、事業が失敗して貧しくなっていたのでナズィフは屋敷から小さなアパートに引っ越したかったのにイジャルは見栄で反対していたし、イジャルは稼いでいる時のナズィフにしか興味が無かったように見える)。

また、父方の叔父叔母はリベラルで知識や教養があったのですが、母イジャルは変な迷信を信じる上に母方の叔父は軍事政権支持者でした(軍事政権のクーデターが起きて彼は喜ぶものの、その日の夜に軍に拘束される)。
自分にとって大切な父方の親類達はいなくなり、残ったのが自分とは相反する価値観の母方の親類だったのでこれもギュルセリンには居心地が悪かったんじゃないかと思います。

作品内の「ホタル」への考察

作品内で重要な要素として描かれるのは「ホタル」ですが、それが実在するのかも何を意味するのかも詳しく解説されていません。
ただ、「ホタルを見たことがあるのは孤独な人」と老いたギュルセリンが口にするので、ちょっとそこから考えてみます。

実の母親に「頭がおかしい」と言われながらもギュルセリンがひたすらにホタルを信じ続けていたのにはそれ相応の理由があると思うんです。

ギュルセリンにとっては「ホタルを見たことがある人」というのは特別な存在で、それは叔母のイゼットと恋人デゥンダルだけです。ギュルセリンが唯一愛したデュンダルとは、彼が徴兵される3週間前に出会いました。

デュンダルは本当に好青年で、ギュルセリンのユーモアや驚異の暗算能力を褒めるだけでなく、2人で一緒にホタルを見たりもします。ギュルセリンが他の人々から無視されてきた能力やホタルの話を丸ごと受け入れてくれた人なんです。
大切な人を失い続けていたギュルセリンにとって、どれだけ大切な人だったことか。

ここからは個人的な考察。

ギュルセリンは子供の頃から利発だったので、優秀すぎる人間に多い「誰にも本当の自分を理解してもらえない」という孤独を抱え続けていたのではないかと思います。どんなに面白いことを言って周りを笑わせようが、どんなに素晴らしい能力を発揮しようが、誰もギュルセリンの心の奥底まで降りてきてくれない。
演じて被る外面と、精神的な内面との乖離が進めば進むほど孤独は深まります。

幼い頃からホタルと会話していたという彼女は、実際はホタルと話していたというよりは自分の精神の逃避先として心の中に仮想の存在を作り上げていたのでは、とも思いました(これは深読みしすぎかもしれない)。
だから、自分と同じような孤独を抱えた人を無意識のうちに求めていたんじゃないかな?それが彼女にとっては「ホタルを見たことのある人」だった。

ギュルセリンは一生を通じてその相手、つまり、自分の孤独を理解し寄り添ってくれる人を探し求めていた。でもギュルセリンのことを大切にしてくれる人々はみんな早逝してしまう。だから尚更ギュルセリンの孤独は深まっていく。
自分が年老いた時、結局周りには誰もいません。そこにあるのは、普通の人々からは理解されにくい者として生まれたが故の孤独です。そして、その孤独を癒してくれるのは「ホタル」だけ。彼女はずっと自分の世界だけを心の拠り所にしていたように見えます。

鑑賞後はそんな静かな悲しみを感じた作品でした。

まとめ

この作品には、一般的な映画のように分かりやすい起承転結はありません。延々とギュルセリンの思い出話が続くだけです。
ただ、そこで語られる思い出はユーモアたっぷりに見せかけて、あまり順風満帆ではないので、実は生涯孤独だった一人の女性の物語なのかな、と思いました。もう少し彼女の人生観を掘り下げてくれれば単なる「風変わりな女性」にならずに済んだんじゃないかとも思います。

また、20世紀後半のトルコの不安定な社会情勢の知識や背景があればもっと作品に入り込めたのかもしれません。「これはトルコ人にしか楽しめない」というレビューも目にしたので、当時の人々の人生を知る機会のない外国人にはどうしても共感しづらい部分はありそうです(軍事政権下での日々の恐怖など)。

興味深かったのは、作中の人々がふとした時に出す動作です。

1つ目はダンス。私がトルコ作品を初めて観たためだと思うのですが、彼らのダンスは見たこともない動きでした。ヨーロッパのものともアジアのものとも異なる、独特なステップ。

個人的には、伝統舞踊の動きにはその土地の文化が反映されていると思うんです。
例えば、日本人からしたら難しく見えるような舞い方でも現地の子供たちは幼い頃からそのダンスを目にしているので自然に舞うことができます。これはアフリカやインドの人々が祝いの場などで繰り出す踊り方を見た時に思いました。
盆踊りすら公民館で強制的に練習させられただけの私には、彼らのように「体が勝手に覚えている」ような動きはできません。

2つ目は怒った時の動作。インドでは自分の靴で相手を殴るのは結構な侮辱なんですが(そのためインド映画では怒った人がすかさず自分のサンダルを脱ぐのをよく目にする)、この作品内でも人々は怒ると自分の靴を脱いで投げようとしていたので、そこには共通の文化を感じました。アジアとヨーロッパの交易地だったトルコは色々な文化が交わっているのだと思います。

終わりに

自分が今まで行ったことがない土地であっても、映画を通してその土地の人々の姿や言語を垣間見ることができます。そのため、観たことない国の映画作品を鑑賞する度わずかに自分の中の世界が広がっていく気がします。
今回の作品もまた然り。

タグ: