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自分は「旅人」にはなれないと感じた理由の推測

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3月初旬にブルガリアにやって来て2ヶ月が経ちました。今は働いていないので、ここでの生活費は全て自分の貯金で賄っています。
日本にいた頃は「旅行しながら生きる」という選択肢を目にする度「そういう生き方もできるんだなあ」と思っていたのですが、ブルガリアで過ごすうちに自分にはその生き方が不向きであることに気付きました。

今の生活では、その土地で行ってみたい場所があれば出掛けますがそんな気持ちじゃない時は1日中部屋に引きこもっています。これはコロナだからというよりは、私自身が元々一人を好む性格だからです。東京にいた頃も休日はほとんど家から出ませんでした。

夕方に筋トレや夕飯、シャワーを済ませた後は、寝るまでKindleで本を読んだり、Netflixで映画やドラマを観たりなどして部屋で自由に過ごしています。
自由時間では他にはIELTSの勉強やcoursera受講、趣味の中国語勉強などを気ままに行っています。

国外にいても何かしらの収入源を確保したかったので、出国前に様々なオンライン翻訳サービスに登録してみたこともあります。ただ、英日翻訳は飽和状態で、ぽっと出の私が入れる余地が無かったので諦めました。

こんな日々ですが問題が1つあります。

私にとってのストレス源だった日本社会から離れた今は幸せなはずなのに、正直に言うと今の生活に生き甲斐を見出だせないんです。
「私は一体何をやってるんだろう」と茫然とすることが多いです。自分の中で「何か成し遂げていない私は無価値だ」という意識が強いせいなのかもしれません。「ただ生きている」という状態を無意義に感じてしまいます。

心の底から現在の生活を楽しめていないことへの焦燥感と、そのような思考に陥ってしまう自分につまらなさも覚えて失望します。「楽しむ時は楽しみ、気を抜く時は気を抜く」という過ごし方をしようとしても、どうすればいいのか分からない。

毎日何のストレスも感じずにただ自分の好きなことだけし、まるで「毎日が日曜日」の状態で過ごしている今は深夜残業続きで心身を壊していた頃の自分なら「今すぐにでもその時間を譲ってくれ」と懇願していたものだろうに、いざその時間が手に入ると毎日強制的にすべきことがあったあの頃の方が時間として充実していたのではないかとも思ってしまうんです。
これが「自由を手にしたことによる不自由さ」なんでしょうか。

無い物ねだりの状態になっているだけなのか、それとも本当に今の生活が無意義なのか分かりません。ただ、少なくとも私は今の日々を来年も続けたいとは微塵も思わないので自分にはあまり合っていないのではないかとも思います。
全ての人にとって「南の島でウクレレ片手にのほほんと」のような生き方が幸せな訳ではないことを実感しました。

今の生活を一言で形容すると「退屈」です。
仕事をしていた頃は平日は死ぬ思いで追い詰められていたこともあり、土日が本当に安らぎでした。それこそ抜け殻のようになっていました。

ただ、今は何も努力しなくていいし何かに頭を悩ませたり苦しむこともないので、自分が必死に頑張ることを求められていません。そのせいで自分の日々に達成感や充足感を一切感じられないんです。

もちろん、悶え苦しむことだけが経験値アップを促すのではないと理解しています。
ブルガリアに来て未知の言語を使って一人で現地を移動しまくっていることや、今までなら落胆して溜息をついていたような出来事にも寛容になれてきたことは自分の中で確実に何らかが変化している証拠だと思います。
それでも、今までの四半世紀以上の人生では「現時点で何も頑張っていない」という状態があまり無かったので「こんな生き方をずっと続けるわけにはいかない」という冷めた自分もいます。自分を自分で受け入れていないのかもしれません。

「0か100か」の考え方は私が好むものではないです。その考え方をしていると余裕がないので自縄自縛に陥り、次第に自分だけでなく他者に対しても厳しくなり、結果的に自分の人生を灰色に染めてしまうからです。
私はこの思考法から脱出しようと努めてきたのに、まだ抜け出せていなかったことに気付き愕然としました。

本を読んだり旅行に出たりすることは決して無駄な時間ではなく自分の人生の糧になり得る要素なのだと納得させる必要があるようです。そうまでしないと今の生活を受け入れられない自分自身こそが何よりもつまらない人間なのでは、とも思います。
だから何をしていても心の底から楽しめない。美しいものを見てもその美しさに感動できない。どこか冷めていて、感情が置き去りになってしまう。

「旅人」というのは、日々のちょっとしたことにも様々な角度から価値を見出し、自分の日々のあらゆるものを受け止め、全身で楽しめるような人にしかなれないのかもしれません。
私のように感受性センサーが機能しなくなっている人間だと、そもそも「余暇」というものにすら罪悪感を抱き自己否定を始めてしまうきっかけになるので、思い切って楽しむということが難しい。

ただ、それは時間の区別がついていないせいもあると思います。仕事で精神を壊したのは連日のタスク過多による深夜残業が続いたという原因だけでなく、仕事と私生活の時間をきっちりと分けられなかったせいもあるんじゃないかと思うんです。

成功している仕事人間ほど、余暇の使い方が上手いと感じます。
「そこまではっちゃけるのか」と思うほど別人のように様変わりし、仕事ではない時間を全力で楽しんでいる。仕事のストレスを余暇で一切帳消しできるからこそ、MP100にまで戻り、その結果再び仕事に対しても全力で打ち込めるのかもしれません。
私にはそれができなかったために、仕事のストレスを休みの日にも引きずり続け、そのストレスが抜けないうちに再び平日がやって来るので次第にストレスが雪だるま式に膨れ上がっていったのではないかと、今ふと思いました。
休み方が下手だったんですね。

また、子供の頃から「休むことは即ちサボること。サボることは即ち恥ずべきこと」という強迫観念を刷り込まれてきたので、「休む」ことすら罪悪感を覚えてしまうせいもあるのかもしれません。
そのせいで「自分と同じ年齢の人達は今頃毎日働いているのに私は…」と妙な劣等感を感じ、心身に必要な休息の時間すら「こんなことをしていていいんだろうか」と思ってしまう。
よくよく考えると異常な心理ですね。動物ですら長時間の飛行や移動後には休みますよ。

恐らく、旅行をガンガン楽しんでいる「旅人」タイプの人は私とは対極にいるのだと思います。
私の場合は何かにつけ「意義」を求めているだけでなく、その閾値が高すぎるので「なんてことない日々」というものを無意義だと感じてしまうのだと思います。ほんの些細なことでも全身全霊で味わう、という感覚が欠落している。

今年1年間の国外放浪生活で多少はその姿勢を身に着けられたらいいですね。普通はこんなん努力して身に着けるようなことでもないんだろうけど。

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